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再び最後の手紙 竹内 (H25.2.17)

平成21年の4月に故高橋重臣さんに最後の手紙を書き、HPに掲載しました。
今回再び“最後の手紙”を故山本昭三さんに出します。

高橋重臣さんは脳出血で突然倒れ、植物人間状態で2年に及ぶ闘病をされましたが、回復する事なく亡くなられました。何回か帰省して見舞いましたが、言葉を交わすことも出来ないまま別れがやってきました。覚悟はできていましたが、奇跡を祈る気持ちは最初から最後まで変わりませんでしたが祈りは通じませんでした。

山本昭三さんは今月9日に亡くなりました。
山本さんは高橋さんとは逆で、昨年9月に腰痛で検査入院(入院3日前は小生と帰省ゴルフの予定でした)し、わずか5ヶ月足らずで亡くなられました。

まだ、現実を認識するのが難しく、悪夢から抜けられない状態です。そんな精神状態ですがなんとか最後の手紙を書きます。


最後の手紙


昭さん! 頑張ったねえ、辛かったねえ。

高知へ帰らんかったら、良かったかも知れんねえ。いやそんな事はない、東京で定年まで病弱な奥さんの面倒見ながら頑張って、奥さんの希望に沿って帰省し、立派な邸宅を建てて、元気になった奥さんと幸せな生活をスタートしたのだから。しかし2年も経たずに奥さんを亡くされました。悲しかった事でしょう。

ある時自分の用事で昭さんの車で高知医療センターに行った時、“一郎俺はここは嫌いじゃ、女房が死んだ所じゃき”と言った時の昭さんの顔は本当に寂しい顔でした。
息子さんと二人の生活で何とか立ち直り、同窓生のゴルフ大会の世話を始め、人好しで、素面の時は真面目人間で酔えば底なしの“ほたえる”心優しい昭さんでした。

自分とは大学卒業後2年間は東京・目黒・祐天寺の昭さんのアパートで、その後は私の新宿・河田町の錦松梅マンションで3年間一緒でした。
その後も中央線の小金井と国分寺に住み本当にかけがえの無いお付き合いをさせてもらいました。Uターン後も自分の帰省中は二人三脚で楽しい時を過ごし、昭さんも関東でのゴルフ大会に毎回参加してメンバーとは旧交を温めていました。

昨年9月彼岸の墓参りで帰省した時、検査入院中の病院で「血液検査でALPの数値が5,600もあるが、その原因が判らんらしい」と言われて、素人ながら色々調べてみて、“尋常ではない病気”かもしれないと思いましたが、なにも言えずに帰りました。

昭さん本人が電話で“癌”だと知らせてくれたのは帰京後3日目でした。医大での検査・治療を強く勧めましたが、その結果は最悪ですでに“手遅れ”でした。
傍目には「ホスピス治療」?だと思ったのですが、昭さんは治癒への強い意志で自宅での「抗癌剤治療」に挑戦しました。

電話するたびに抗癌剤の副作用で苦しい状態なのに努めて元気な声を聞かせてくれました。
なんとか新年を迎えられましたが、1月中旬には、体力消耗で自宅治療は無理になり再入院しました。

そんな時土佐高の選抜甲子園大会出場の朗報がはいりました。電話での話題が途切れそうだったので二人にとって格好のニュースでした。毎回、“甲子園へ応援に行くぞ、車椅子でも行くぞ、元気になれよ”と言って電話を切りました。

しかし、お互いにそれは夢のまた夢だと判っていました。
それでも、奇跡を信じ祈り続けていました。高橋重臣さんの時と同じ気持ちでした。
しかし“神も仏もいないのか”、サドンデスで召されてしまいました。

昭さん! 悔しいねえ、やりきれんねえ。
けんどもう終わったき、ゆっくり休んでや、そう長うないうちに又逢えるき。
その時は二人でマディガン有りでスクラッチでゴルフしょう。

いっぱいある思い出を胸に今はサヨナラします。
昭さんありがとう。



追:2月11・12日の高知での通夜・告別式には土佐高36回の多くの友人がお別れに参列されました。
又関東36会の有志の方々からは花輪が献花されました。

関東36会の会長として御礼申し上げます。
皆様のご自愛を心よりお祈り申し上げます。


平成25年2月

                        竹内 一郎


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