近況レポート・投稿記事

近況レポート目次

前ページ 次ページ

神田界隈:お玉が池千葉周作道場玄武館跡と江戸大牢跡を訪ねる(H17.6)



街道を行く

入院中友人から司馬遼太郎の週間「街道をゆく」シリーズを差し入れしてもらった。

なんと創刊号(1月30日)が「梼原街道:龍馬、脱藩のみち」、7号(3月13日)が病院のある「神田界隈、甲州街道」である。

創刊号に「龍馬、脱藩のみち」が選ばれたことは司馬遼太郎がよほどの龍馬ファンだったからだろう。


高知の多くの諸兄は皆さん目を通しておられると思うが、梼原界隈の歴史風土や龍馬を中心とする幕末の志士の様子がわかり易く紹介されている。

お恥ずかしいことながら小生実は梼原が何処に在るか良く知らなかった。

梼原といえば同級生のS君、中々の好男子、言葉も普通の土佐弁とは少し違ってどこか上品な響があった。今どうしておられるだろう。

お玉が池大明神



千葉周作道場跡

当ホームページにお祭り礼子さんが「三島神社秋祭り」など何度かこの地方の祭りを詳細にレポートいただいているが、なぜ土佐の山奥にこんなすばらしい文化が育まれたのかと疑問を持っていたところである。


 三嶋神社秋祭り 

 三島五社神社秋祭り

 河内神社神祭



当主津野氏一族は平安時代から中央文化との交流につとめていたようだし、室町時代にはこの地方から京都の五山で活躍した「義堂」「絶海」といった日本を代表する名僧が出ているとか。

ところで龍馬は1853年、19歳の時江戸千葉周作道場に剣を学ぶ為に土佐を出た。


たまたま7号の神田界隈のページをめくっていると「お玉が池千葉周作道場跡」が病院と目と鼻の先にあることがわかり訪ねてみた。
龍馬は最初千葉周作の弟定吉に師事したようであるが(ダックさんのコラム投稿による)だとしても京橋だったようなので大して離れてない。

現在東京にお玉が池なる地名は無いが、お玉が池の跡地に「お玉が池稲荷」が神田岩本町交差点愛媛銀行のビルの谷間にあった。
かつては上野不忍池の2倍もある大きい池だったようであるが、江戸時代に埋め立てられたようだ。

千葉周作道場「玄武館」もこの近くにあった。
当時はこの界隈は広大な上屋敷や学者、医者等の文化人の街だったようで立地条件にも恵まれ門弟3000人を数え大繁盛だった模様。

儒者「東条一堂の瑤池塾」と隣合わせだったようで玄武館の跡地にそのことを記した「右文尚武の碑」が建っている。




武尚文右の碑


少し南に歩くと日本橋小伝馬町の交差点脇に「江戸大牢跡」なるもの寂しい場所があった。大安楽寺という寺が建っていた。

吉田松陰が安政の大獄で、ここで1860年頃処刑されている。

龍馬が千葉周作道場に通っていた頃には江戸大牢はここに有ったことになる。


江戸大牢跡



江戸大牢跡


当地は関東三六会メンバーにはおなじみホテルニュー神田の界隈。



続きを後日投稿予定。


           tomii




江戸大牢跡


  目次  TOP  前ページ 次ページ